2006/07/31 私はきっと幸せになれるわ あなたが生きてる限り

やあ、今まではずいぶん色々あってしんどかったね。これからも大して変わらないだろうね。でもそんなに悪いものじゃないと思えてよかったね。生きてるって面白い。そしてすばらしい。これからも頑張って生きていこう。生きている限り、私は止まらないで頑張り続けよう。もっと色んなことをして、新しいものを見るんだ。この人生で、この体で、出来るすべてを努力して楽しむんだ。後悔はさせない。幸せにしてあげる。

などと思う、脳腫瘍の手術から9年目の今日。一体どういう視点で誰を主体に話しかけてるのか自分でもよく分からないけど、直感的にというか心にこんな感じのことが思い浮かびました。つよく、明るい気持ちで。
脳腫瘍になった現実がある人生を楽しませてあげよう、と私に対して思う私。自分でも楽しみたいな、とすごく思う。せっかくの人生。そしてある意味では自分で選んだ人生だから。
9年目にして何となく病気に対して余裕が出てきたってことですかね。何なんだろう。少しは成長してるなら嬉しいことだなあと思う。
個人的に10年を一区切りに考えているので、あと1年で自分で自分に対してどれだけのことが出来るかな、と考えると楽しみだし、頑張らなきゃと身が引き締まる思い。ここ数年はMSWの仕事に就いたし、ジムやスキューバとか体を動かす系、体の感覚を大切に、楽しむことを始めてるのがいいことだと思う。これからも続けて、そしてもっと別の楽しいこと、新しいことやりたいな。
気力があっても虚弱体質なのが私なので、こんな風に思ってても実際は「やりたい気持ち」と「体(体力)」がアンバランスな車輪のように私をつまずかせることもあるとは思うんだけど、そこはそれで頑張っていきたいなあと思ってます。

脳腫瘍になった原因なんて誰も分からない。痛みが消えない理由も分からない。どうにも出来ない。たぶん一生。
でも傷や痛みがあることが動くことの貴さを教えてくれる。動くことで見える、感じられる、触れられることの素晴らしさ、ものすごさ。それらは広くて深くて、不条理でひどくて、不思議で面白い。そして美しい。
本当に、この体でこの先どれだけのことが出来るんだろう。分からないけど、頑張りたい。前を向いて、楽しんで、頑張って、いきたい。脳腫瘍に「ありがとう」を云える人生でありたい。

2006/07/30 それでも人生にイエスと云う

芹沢俊介『「病」と向き合う』で、がんという病気にまつわるメタファーについて解説されましたが、がんとは「20世紀的な病」で、そのメタファーは20世紀を象徴するイメージとイコールで、何だかずいぶんとひどいイメージ誘導されてるなあ、と私は思ったのですが、それはこんな感じ。

・がんはどの器官にも表れ、体全体に関わる病気
・異常な、最後は死につながる腫瘍がゆっくりと絶え間なく、一歩一歩生育してくる病気
・その進行は直線的で、段階的。
・兆候が体の内部にあり、体のなかを調べないと分からない。
・がんとは「異物化」。「癌」という漢字の由来は「岩になる」。また「がんこ」に通じる「がん」という音には変え難い悪いものというイメージ、禍々しい響きがある。
・がんは生きた塊り、自分の意思を持つ胎児、寄生体、魔性の懐胎
・非常で容赦なく、情緒や憂愁のない苦痛。七転八倒の苦しみ、無残な死。
・懲罰的色彩が濃い。「なぜ私ががんに?」「悪いことをしてないはずなのに」。懲罰なので残酷な治療も甘んじて受けなくてはいけないと考えられる。
・外から来た敵に体が侵略され、略奪されるイメージ。そのため、治療として逆襲に出るしかない。あくまでも「戦争」のイメージ。
・がん細胞とは非我。絶対的他者。外部からやってくる「エイリアン」。
・中流生活の豊かさ、過剰さが生み出す病。
・激しい感情の抑圧(怒り)。エネルギーを外に表出しないために起こる病気。エネルギー抑制とはつまり消費生活拒否のイメージ。20世紀という時代を否定することが「がん」である。

…イメージとは云えずいぶんだなあ…。でもなるほど確かに「豊かさ、過剰さ、感情の抑圧」と云った現代生活が原因でがんになると思われていますよね。
自分の体の中に出来た異常な異物、というイメージは私も一時期持っていたので感覚としてよく分かる。私の意思に反して生まれ成長する細胞。自分自身の体に裏切られたような、ぞっと冷えるような気持ちになったのを覚えてる。
また私は哲学・思想系が好きだったので、こういうイメージにも馴染みがあって、そのイメージ、言葉で自分の病気を理解して納得して受け止めたいと思ってたときもあったけど、でも実際病気と付き合ってみると、そういうイメージって割とどうでもよくなってきたりする。自分の意思がどこにあったとしても、熱が出て頭が痛くなって吐き気がする、そういう現実的な、どこまでも逃げようも逸らしようもなく身体的なことこそが自分にとっての「病気の現実」なので、所詮イメージ、詩のような言葉を動かしているだけとか思ってきてしまって、言葉の力は無効になってしまった。「得体の知れないもの、つかめないもの」だからこそ言葉やイメージは力を発揮するのだと思う。
芹沢俊介の語る言葉やイメージは私にとっては物足りない、歯がゆい。でも忘れかけていた「病気前の」感覚、感じ方を思い出せた気がしたのでこれはこれでいいのかも。強くなったか弱くなったか、醒めたか冷静になったか、自分が好きになったか嫌いになったか。良くも悪くもすべては変わった。圧倒的に。

「懲罰的なイメージ」について。何だかあんまりに切なくて辛くて講義を聞いてて泣きそうになりました。「どうして私が?」「どうして?何も悪いことしてないのに」、何度もその問いかけを聞いた。でも今でも分からない。答えられない。私にも分からない。
でも病気になったことにについて、何か原因があるのではないか、悪いことをしてしまったのではないか、と考えるのは人間の心理として当然のことだと思う。仕事のしすぎがいけなかったのか、食べ物に気を使わなかったからだめだったのか、ストレスをためたから、家族を省みなかったから、誰かを憎んだから、自分が弱かったから、自分勝手に振舞ったから…そうやって突き詰めていって自分を責めたり、自分の今までを否定する方向に行ってしまうのもまた人間の心理だと思う。悲しい、やるせないことだけど、でも「誰かのせい」にならないのはその人の優しさ、強さでもあると思う。「外から悪意を持って侵略してきたエイリアン的な他者の力に攻撃されている」と架空、仮想にしろ自分以外の誰(何)かを敵に仕立てて憎まない。自分を責めて辛くなっているのを見ていると、やっぱり「敵」がいたほうが精神的に楽になるんじゃないかと思ってしまうけど、どうにもならない感情(悲しさ、苦しさ、辛さ、やるせなさ、絶望、怒り、混乱)をそれでも自分の内に留めようとしている。それでも問いかけずにはいられないときもある、「どうして?」「どうして何にも悪いことをしてなのに、どうして私が?」。
何かそういうのを思い出してたまらない気持ちになりました。こう問いかけられたとき、医学的にではなく、同じ患者として、あるいはMSWとして、何が答えられるんだろう。いつも言葉を失っているけど、いつか答えられる日が来るんだろうか、結局のところその人の人生から答えが出るのであって誰も何にも正解を持ち合わせてないのが真実か。
何にせよ、どういう仕組みでイメージが生まれるにしろ、出来るならば「自分が悪いから」と思わないで欲しい。そういうイメージは患者さんの心から、周囲の人の目から消えればいいと心の底から思う。
芹沢俊介からは離れてしまったけど、そんなことを思いました。

病気をテーマにしているだけで時代のイメージを論じている、と割り切れないあたり私もまだまだ感情的だなあ。現実は現実、事実は事実と冷静に受け止められないと哲学・思想の勉強は出来ないよ、とそれもまた今回の講義の収穫かも。
自分の経験したことは現実で、強いけど、でもそればかりに拠っていたら物の見方は単一になり、独善的にもなる。世界は狭く収束していく。
何ていうか、引き出しの多い人間というか、広く深い人間になりたいなあ。

2006/07/29 雲見ツアー 2

今日は朝に雲見に移動してダイビング。天気がよく、すばらしく日に焼けそう。 日焼け止めをものすごく塗ってみたけど、海に入ったらあんまり意味なさそう…。ていうか日焼けを厭うならマリンスポーツするなって感じですが(笑)。

今日は透明度がなかなかで(前回が悪すぎだったけど…)潜っていて色々見えて楽しかったです。爬虫類の手のようなヒレで岩にぺったりと張り付いているイザリウオ、鼻毛(みたいなぴるぴるしたもの)を出してるウツボ、イカ(イカが泳ぐのを生まれて初めて目の当たりにしたけど、すんごい早かった。足を揃えて後ろ向きにぴゅーっと飛ぶように去っていきましたよ)、ネンブツダイ、イシダイ、エイなどなど、もう名前も分からないけど、たくさんの魚が見られました。
一番圧巻だったのがカタクチイワシの群れ。目の前を流れ、頭上を泳いでる無数の銀色の小さな流線型。遠くゆらめく空の明るさを背景に魚が泳いでいるのは、何だか魚が空を飛んでいるような、不思議な光景でした。
そんなイワシの群れを追いかけるサバも見られました。サバは本当に絵に描いたような「魚の形」をしていて、たぶん私の肩幅くらいに大きい。サバといったら味噌煮とかしめられている姿しか見たことがなかったので、生きて泳いでるのはなんか別の生き物っぽく感じられたり(笑)。

今日は波のうねり、潮の流れが強くて、海中では中性浮力で泳ぐというより、岩や海草につかまって匍匐前進みたいな感じでした。グローブ(手袋)がなく素手だったので、海草とか貝でがびがびした岩につかまるのは辛かった…。手痛い。そして海中でなぜか急に右手の甲がびりびりして、後で見たらぽつぽつ虫にさされたようなアトが…。そしてかゆい…。うう、変なものに触った覚えはないのにかぶれてしまった…。リンデロンを持っていったので塗っておいたけど、かゆい…。もう絶対絶対次はグローブつけて潜る。ショップに行って絶対にグローブ取り寄せてもらう!(何度か問い合わせているのに何だかんだと忘れられてる)。あと首はウエットのタートルネックでカバー、腕も手首までの長袖、足も足首までウエット、足はブーツとカバーされてたのに手だけ出てたので、逆手袋焼けしました。ま、まぬけ…!

雲見では洞窟ダイビングもしてきました!
潜行して岩の陰から洞窟に入り、薄暗いトンネルを通り抜け…と冒険っぽくてすごい面白かった。日が差さないので洞窟の中はびっくりするほど水が冷たくて寒かったけど、普通にしてたら絶対に見られない洞窟の内部、隠れた岩場に潜む魚などを見られてすごく感激。ダイバーの醍醐味!
洞窟の出口が岩の隙間みたいな狭いところで、トンネルから見上げていると光りが差し込む形まで見える。そこをゆっくり上がって洞窟を抜けるのもよかった。何かすごいダイバーっぽかった!

浮上してるときに遥か足の下にさっきまでいた岩や海草が見える、まるで空を飛んでるような光景もダイビングならではって感じがして個人的にはすごく好き。
何かダイビングしてると、夢で見た光景をリアルに見られるような気がする。不思議で面白い。

2本ダイビングしたけど、1本目と2本目の間にはスノーケリングもしてきました。ウエット着てると何にもしなくても浮いていられて楽だけど、絶対にどう頑張っても潜ることが出来ない。潜ってもすぐに浮上してしまう。一度何とか潜ったときにスキューバの感覚で思いっきり海中で呼吸しようとしたけど、スノーケルマスクってただの筒だから吸ったら普通に海水飲むだけなんですよね!分かってたはずなのに、思いっきりやってしまい、ばかみたいに海水を飲んでしまいました。溺れるかと思った…(あほだ。笑)。

昼ごはんは松崎港(だったかな)近くの定食屋で刺身定食食べました。マグロ、アジ、カンパチ(たぶん)、サバの刺身が超美味しかった!伊豆で取れたての魚を食べるって最高だ!しかし、さっき見た魚を今度は食べるってシュールですね(笑)。温泉にも行けたし、まるまる伊豆と海堪能できて楽しかったです。やらないと淡々とした気持ちになるけど、やると思いっきり楽しい、それがダイビングの不思議な魅力。

2006/07/28 雲見ツアー 1

夜から西伊豆・雲見にダイビングに行ってきました。器材はショップに預けてあるけど、ウエットスーツとインナーは持参しなくてはならず、超かさばるウエットをどうやって持っていこうかと思っていたら、ちょうど布製で車輪つきのショッピングカートを見つけてゲット!海外旅行に行く人みたいになりましたが、ウエットもインナーもばっちり入って持ち運び便利!これからもダイビング行くのに役立つだろうからとてもいい買い物をしたと嬉しい。

今日は泊まるところ(田子)までの移動だけ。田子では星が綺麗に見えました。港の灯りがあるので降るような、とまではいかなかったけど、天の川が見えました。あと流れ星も!流れ星って実際に見てみると、びかびかとした光りが切り裂くような、燃え尽きるような勢いで一筋落ちていくので、目に入ると、どきっと胸がとどろく。ロマンチックというよりも、昔の人が不吉の徴としたのが分かるような、妙な存在感、生命力があると思う。でも何万年、何億年前の光りだったりするのが不思議。星の光りは昔の光り。
それにしても天の川を最後に見たのは確か小学生のとき鹿児島で。流れ星は高校生のとき長野で。今はジュースみたいにビールを飲みながら西伊豆で夜空を見上げてる。次に見るのはいつだろう。何処でだろう。そして誰と一緒だろう(と乙女チックに)。

2006/07/27 まもなくときあかされる、真実

何だか最近はやたらばたばたと忙しいというか時間がない。残業したり、しなくても仕事帰りに寄るところあったりと家に帰るのが遅いから「自分の時間」がすごくない感じがする。あれもこれもやりたいし、やらないといけないんだけどなあ。
でも睡眠時間を削るという選択肢はない私。睡眠足りないと余計弱っちゃうし…(かわいそう)。

今年初めての桃を食べました。冷やした桃はつめたくて甘くてとろけるようで体にしみとおる。美味しいなあ…。夏だなあ…。

2006/07/25 世界の縮図としての

芹沢俊介の講座『「病」と向き合う』の第2回目を受けてきました。

この講座ってソンターグの「隠喩としての病」をテキストに、病気にまつわるメタファーとは、特に19世紀における結核、20世紀におけるがんのメタファーとは、それぞれの時代における自我のありよう、認識の仕方、価値観である、メタファーは現実を神話化あるいは単純化して現実と向き合えなくさせる。
そういったメタファーの正体を探り(つまりはその時代における自我観、認識、価値観)、ひもとき、現実を現実として捉らえた上で向き合い方を考えよう、という内容なんでした。自然科学ではなく哲学または文学。
今日の講座を聞いてようやくそこが納得いきました。私はどちらかというとリアルな、自然科学の話を求めてたので、第1回目はもやもやとしてたんだと思います。今回はもう哲学・思想系の話と思ったら、それはそれで面白く思えました。もともと哲学・思想系の講義大好きなので。
芹澤俊介がまた大学の先生を思わせる人だと思う。優しい学者という感じ。かたまったイメージをわかりやすい言葉に解体して新しいイメージをくれる。そういう。

メタファーを持つ、「その時代の病気」として「結核」と「がん」が取り上げられたんですが、実際教室に結核患者とがん患者がいたのには私もびっくりですが(いやがん患者って私ですけど)、芹澤俊介もびっくりだったのではないかと。なまなましい…(笑)。

戦争の世紀である20世紀をメタファーに持つ(そして同時に20世紀のメタファーでもある)がんは、語られる際に戦争用語が多用される、というのが興味深かったです。
「増殖する」「除去、切断、切除」、「侵す」「がん戦争」「包囲」「がん細胞を殺す」「抗がん剤でたたく」…などなど。
特にアメリカではがんというのは「宇宙的な病気」と云われる。宇宙から(外から)やってくる恐るべき敵。有機体に押し寄せてくる破壊的な、別世界の力。そして善悪という単純世界観。

またがんは「異常な、変質する病気」でもある。見えないところで、増殖する細胞、変質して「石(癌=岩のイメージ)」になる。それは「生きた塊、自分の意思を持つ胎児、寄生体、魔性の懐胎」である。

ここらへんはソンターグの本からの引用がほとんど。でも割とイメージ誘導というか、メタファーを取り上げつつも「言葉のイメージ」を強く感じるあたり、文学的というか、リアリティ?新しさ?何かが足りない感じがしてしまいますけどね…。
時代論とか出してくるならもうちょっと社会心理学的な面を出してくれたほうが面白いのに、そこが物足りない。

がん、心臓病、脳血管疾患が日本人の三大死因なのに、がんだけが空想を呼び、空想から言葉を生むことでメタファーになってしまうのか。それは「直に現実と向き合うのが難しいので、空想から生じた言葉を使ってしまう」。
かつて(19世紀)メタファーに彩られた結核も医療科学が進歩した現在ではメタファーを持たない。メタファーとは時代によって生まれる、という。

うーん、なかなか面白いんだけど、物足りない。それが一番の感想。でも色々と思うところはあったので、内容はよかったんだと思いますですよ。自分なりにまとめてみたいと思います。

2006/07/24 散らかった線を拾い集めて

相変わらずお腹の調子が悪い…。何だかなあ…。
今月はそんなこんなでプールにも行けてない。でも週末にはダイビングに行く…(無茶な。笑)。

健康ニュースはつい目が行きますですね。
>飛行機の乗客らに発症するエコノミークラス症候群などの血栓症の予防に、カボスが大きな効果を発揮する可能性が高いことが、大分大教育福祉科学部の望月聡教授(食物栄養学)らの研究でわかった。
カボス!?何でカボス!?と思ったけど、大分県の特産品カボスを健康食品として活用するため、果実の効能などを調べてきたそうです。で、動脈硬化に有効とされるポリフェノールと似た強い抗酸化作用があることを確認した、と。
私はてっきりエコノミークラス症候群に効くものを探していて、カボスに行き着いたのかと思ってすげーカンだなあと思ってしまいました。スタチン(メバロチン)開発秘話みたいな壮絶かつ地道な努力と奇跡的な偶然があったのかと…。科学の世界は不思議だ(と文系)。
何処かの誰かが頭痛によく効く食物を研究して発見してくれないかなあ…(本音)。

2006/07/23 言葉は何を伝えるか

久し振りに図書館へ。最近読書欲が高まっているのであれもこれも読みたくてうずうずする。ああもう一週間くらい図書館に住み込みたいなあ。ばりばりと片っ端から食べるように本を読みたい、あれもこれも。そんな気持ち。

今週また芹沢俊介の講演を聴くので、ちょっと勉強してみようと思い、芹沢俊介の著作を探したけど、吉本隆明との対談本「幼年論」しかありませんでした。読んでみたけど、うーん…私が児童論、教育論に疎いせいか、あんまり感銘を受けなかったというか…(友達から聞いてた話の通りだ…)。ていうか云ってることは分かるけど、踏み込まない感じが芹沢節なの、かな…と。傍観しているとか俯瞰してるとかともまた違う、見当違いでもない、でも革新的でもない。学校の先生的な雰囲気。いや先入観はいけないですけど。

結論は講演すべてが終わってから、と思ったけど、やっぱり思ったことを。
やっぱり芹沢俊介の向き合いたい「病気」というのは健康人から見た、「これから来るべき未来」なんだと思う。正面から、でもある距離を持って、説明している。それは冷静なので無意味に恐怖心や危機感を煽らない。公平。でもその分心に食い込んでくるものがない。講演の説明で、健康人と病人が住む国を人は行き来する、と云ってたけど、芹沢俊介にその行き来する視点がないと思う。
あと言葉とイメージを操るのが巧すぎて、結局のところ芹沢俊介がまた新しいイメージを作っている感じがして、そこにうまく誘導されてるので、もやっとするんだと思う。
病気と向き合うとは云うけど、向き合うべき病気のイメージを作ってる。
健康人が病気を今までのイメージに従って恐れないように、と誘導している。病気を過度に恐れることはありません、恐れなければ病気の現実と向き合えます。過度に恐怖することもよくないと思うけど、絶望のない世界に希望はなく、現実もまたないように思う。恐怖を排除するから「怖くない」と思わされることにひっかかりを感じてしまう。
それは健康人の世界だ、と病人である私は思う。

じゃあ病気の現実、生々しさが分かるのは結局のところ病人だけか、と云うとそれはまた傲慢というか逆優越感みたいで好まないんですが、でも健康人と病人の国に差異がない、というのが初めの話だったので、そのギャップを埋めるものの見方を提示するのかな、と思ってました。まあこれについてはあと2回の講演で触れられるのかもしれませんし、私の思考というか感覚が偏っているからかもしれないですが。今後それを見極められるといいなあと思う。

もうぐっさりと、反感買うほど、うちのめされるほど、残酷に、言葉を使って現実を見据えて欲しい。とか思う私はマゾですか。でも哲学、思想の面白いところは心を抉ったり、頭にも心にも入らない異物だったりする言葉で自分の価値観や現実を揺さぶられることだと思いますですよ。
でもすでにこれだけぶつくさ考えているんだから芹沢俊介だって十分仕事はしているともいえますが。

病気論のことを考えていて思い出した。D・クーパー「反精神医学」の中の一文。これ読んだの学生時代で、大部分は忘れているんだけど、ここだけメモにして残してあった私。何か色々思うところがあった模様。今見ても色々と思う部分はありますですね。

「まず、患者の中に病気があると想定される。そして、その病気は、何らかの方法で患者の外側から生じてくるものであり、しかも患者を変質させる一つの過程だとされている。ために、本来、患者のものであるはずの疾病や変質は、本質的な位置から外されてしまう。このような意味で、患者は病気に冒され、変質させられているのである。すなわち、患者は物化されて疾病過程を成立させる客体になってしまっているのである。したがって、疾病過程が苦しんだり、傷ついたりすることになってしまう。」
「また、単に、患者を疾病過程から生じた症状を担っているものとするならば、患者は、人間としては不要な者となってしまうし、したがって、人間としての実存を剥奪されることとなる。人がその身を委ねている医者は、症状(常に、転移させるか、抑圧せねばならないものとしての)という惰性的な非人間的分野や、疾病過程(できるものならば、除去しなければならないものとしての)のみを相手にしているのである」。

2006/07/22 かすみを食べてみたい

今日は高尾山のビアガーデンに行ってきました。待ち合わせ時間より前に(と云ってもだらだら寝てたので1時間くらいしか余裕がなかったけど)一度ぶらりと山に登ってみました。と云っても歩きではなく(もちろん)、リフトに乗って。スキーのリフトとまるっきり同じリフトで約10分。足が下に着きそうな時もあるけど、左右は深々と薄暗い森、結構高いところまで行くと屏風のように連なっている山が見えてすんごい山の中にいる気分に。東京なのに。リフトに乗ったのなんて久し振りだったので足をぶらぶらしながら、つーっと運ばれていく感覚が新鮮で面白かった。すれ違うのがいかにも登山な人達だったり、いかにも夏休みの親子なのもまた趣きある。
山の上についたらもやでうすぼんやり。空気が涼しく、しっとり。頭上に覆いかぶさる木々の枝が薄暗い緑色の影になっているのが何だか朝のような夕方のような。先を行く登山の人やビアガーデン目当ての大学生らしいグループももやでうすぼんやりと夢の中みたい。
展望台から下を見下ろしても灰色のもやがたなびいているのが見えるばかり。山の遠近も濃淡となり水墨画の世界。紫陽花、桔梗、山百合が咲いていて綺麗でした。
奥に歩いていけば猿山や神社があるんですが、待ち合わせの時間が迫っていて行けず…残念。でも執念でお茶屋さん(時代劇に出てくるような)で焼き団子を買って食べました(旅は食い倒れと心得る人)。薄甘くてくるみが入ってるお団子に味噌がつけて焼いたやつ。香ばしくて薄甘くて美味しかった。空気がいい中で食べるとまたいいですなあ。
下りもリフト。下りのほうがちょっとのめるような感じがして怖い。でもやはり運ばれて空を行く感じは面白い。魔法の絨毯感覚。今度は上りでスーツ姿の人が一人ずつ、しかも何人も続いてやってきて何だかシュールな感じでした。たぶんビアガーデンに来たサラリーマングループだと思う。まあ向こうとしても一人で気軽いカッコウしたやつが下りてきて奇妙な感じがしたでしょうが(笑)。
そして待ち合わせ場所(駅改札)に駅からではなく山からやってきてビビられる私。何処からどう来たんだよ!みたいな(笑)。

そして再び登山(笑)。今度はケーブルカー。平行四辺形急傾斜の車体と駅にびっくり。箱根の登山列車でさえ乗ったのずいぶん前だったので。リフトと比べてぞっとするほど急角度の斜面。これジェットコースターですか?という。面白いけど、ちょっと怖い。けど面白い。秋に来たら紅葉の中を泳ぐような気持ちになるんだろうなあ。

ビアガーデン。2時間飲み放題で、ビールは生、黒生、ハイネケン。ワイン。カクテルは各種原液とソーダ、氷が置いてあって自分で作れる。食べ物はバイキングでパスタ、焼き鳥、シュウマイ、から揚げ、枝豆、ピザなどなど居酒屋メニュー。スイーツもある。これで3000円くらいなので安い!と思う。
日頃お腹の調子が…とか云ってる割に普通に飲み食いしてしまいましたですよ。空気が美味しいとさ!(何だよ)。

今日は天気が悪かったので、見下ろす景色は薄靄でしたが、晴れた日には夜景がすごそう。でも今日は今日で、水墨画の世界、山肌を背景に流れる霧のひとつぶひとつぶが見えて、何だか布のように撫でられそうで綺麗でした。見飽きない。

帰りはラッキーにもケーブルカーの最前列に座れたので、ジェットコースター気分を堪能(笑)。線路の先が見下ろすというより目の前に迫るという感じ。いつかギューンと落ちそうで怖かった(笑)。

東京でこういうところがあるんだなあ。次は1日がかりで遊びに来たいなあと思いました。大自然の空気というのはやはり人をリフレッシュさせるなあとほろ酔いで思う私でした。

2006/07/21 空を飛びたい、城を築きたい

研修。今日から実践的な内容となり、経験年数1〜2年のMSWと色々なテーマで話をしましたが、大体の人が、今の自分、仕事に自信がなくて、院内で走り回って振り回されてる感じがして不安な感じで、それでも必死で、研修に参加した目的も他の病院のMSWと仲良くしたい、自分のやってることに自信を持ちたい、自分の考えや病院の方針に染まらず視野を広く持ちたい、とみんな大体おんなじ。大学病院のMSWも療養病院のMSWも、一人職場のMSWも先輩のいるMSWもみんな悩みも思うこともおんなじなんだなあ…。そう思ったら自分の中にあった「これでいいのか」という焦りや孤独感みたいなものがちょっと癒された気持ちになりました。

私は医療相談室を一人でやっていくことで、変に強気になったり意固地になったりして、視野が狭くなって、自分よがりになってしまうことがすごく怖い。自分の中に確固たる信念や判断基準や自信が欲しい、でも、中立で俯瞰的な視点とバランス感覚を失くしたらそれはMSWではない。
この研修で色んな病院、色んなMSWの話を聞いて、「独裁者」にならないように学んでいこうと思いますです。柔軟に、揺るぎない、そういうものになりたい。

2006/07/20 ベンチとコーヒー

今日は雨こそ降ってないけど、曇りの日。どんより。薄暗く、肌寒いくらい涼しく何だか秋のようで嫌いではない天気ですが、だるい。眠い。ぼんやりとする。
頭も痛いし、お腹も結局ぐずぐずとする。ぼろぼろやわ!(と意味もなく急に関西弁)。
眠いせいか、やっぱり今日もコーヒーがどうにも恋しく、お腹はあまり思わしくないものの、昼休みに近くのカフェ(シアトル系)に行ってコーヒーを飲んできました。飲む前に香りにすっかりと癒されました。深くてくっきりとした馥郁たるコーヒーの香り。深々と染み入るような。今までコーヒーは刺激剤または鎮痛剤(笑)としか思ってなかったけど、リラックス効果もあるんだなあ…。刺激による無理矢理の覚醒ではなく、何かこう気持ちがしゃっきりくっきりという感じ。私、大人になった気分ですよ(笑)。

まあその後も微妙にお腹の調子が悪かったですけどね。一体いつになったらすっきりするんだろう。
週末はビアカガーデンに行く予定なので(またか)治って欲しいなあ。あとお腹痛いとプールに行く気もなくなるのでどうにかしたいところ…。

2006/07/19 雨のち晴れ

低気圧が近づくと、副交感神経が刺激されるという話。

自律神経(交感神経と副交感神経)のうち、交感神経は身体活動を亢進させるように働き、副交感神経はそれを抑制するように働く。
つまり緊張状態・戦闘状態には交感神経が働き、休んでいる時・リラックスしている状態には副交感神経が優位になると云われている。

ペインクリニックで行う神経ブロック(主に星状節神経ブロック)は痛みを伝え、痛みによる緊張を身体に伝える交感神経の働きを止めるものである。

…というと、副交感神経が優位になっている天気の悪い日はゆったりとリラックスして具合がよさそうなのですが、だるかったり疲れが出たり、古傷・神経痛は悪くなったりする。
身体は副交感神経が活発になって休息モードになっているのに、実際は仕事とか活発に動かなくてはいけなくて、その矛盾が気分の重さ、だるさを生じさせるとは云うけど、でも痛みが増すというのは気分の問題だけではないような。

阿保徹先生によると、気圧が低いときには脈拍数が低くなる。脈拍数が少ないときは、副交感神経が優位になっている。副交感神経が優位の時には白血球中のリンパ球が増える。白血球にリンパ球が増えると、アレルギーを起こす頻度が増したり、無気力不活発状態になったり、頭痛や関節痛が起こったりする、ということらしい。
痛みが増したり体調不良になることに関しては納得いくけど、副交感神経優位というのは身体にとってあまりよろしくないということになるということ?

うーん…。何だかだんだんこんがらかってきてわからなくなってきた…。
所詮文系。交感神経と副交感神経がどっちの働きをするのかさえ時々ごっちゃになるレベルのおつむです。

とりあえず私は低気圧が近づいてるときはだるかったり眠かったり痛かったり体調はよろしくないです。暑くても体調悪いんですけどさ!(笑)。何かもうここまでゆるぎないといっそ清々しい(自画自賛すんな)。

2006/07/17 完全オフ

今日は本当に完全にオフ日!おうちを一歩も出ないんだから!(ひきこもり)。本当に家を一歩も出ずに過ごしてしまいました…。起きたのは8時くらいと休みにしては結構早かったんですが、ワイドショーをだらだらと見て、ネットをして、唐突に猛然と掃除をしたい気持ちになって掃除をしたという。

掃除は何か本当に急にやりたくなったので始めたら止まらなくなりました。とうとう社会福祉士のときの教科書も捨てました。01年発刊のものなのでいい加減捨てるべきだったんですが、もしかしたら仕事で見ることがあるかもしれない、と惜しんで捨てられず今日まで…。でもやっぱり教科書を見るということはなかったので捨てることにしました。ちょっと名残惜しいけど…。あ、でも年数経っても改正とか変更とか関係ない「介護概論」と「医学一般」はとっておきました。介護概論は、学校行ってるとき友達はすごい得意だったのに(まあ現役介護職なので当然と云えば当然ですが)私は勉強してもなかなか頭に入らなくて四苦八苦したのが思い出深いです。医学一般は趣味と実益を兼ねて(どういう趣味だ)読むこともあろうかと。
どうでもいいけど、社会福祉士の国家試験でたぶん一番成績がよかったのが(試験に受かった後簡単に自己採点しました一応)法学と医学一般だった私。福祉科目じゃない…。心理学は試験前はいけるかと思ってたけど実際はあんまりよくなかった。まあそれも福祉科目じゃない。

2006/07/16 持ち前の感覚を捧げよう

昼頃まで寝てました。久し振り…。でも起きたら頭がガンガン痛くて、あまりの痛みようにショックでおえっとなるほど。激しい金属的な痛み方で、何ていうか精神的にくる。いやいつも来てるけど(笑)金属的な感じがして神経に障るっていうか。ひどい二日酔いか風邪のときみたい。
お腹の調子は平日より全然良くなりましたが。何ていうかいつだって二者択一の私…お腹が痛いのと頭が痛いの、痒いのと痛いの、どっちの病人ショー!今週もえりすぐりの症状をご用意しました、ってどっちもいやなのに!!(笑)

そんな状態ですが、約束があったので出かけることに…。でかける準備している間も激しく痛くて、ブルフェンを2回(2錠じゃないあたり…)飲んだけど全然軽くもならないので、本当辛かった…。外に出たくなかった、けどここで痛みに屈したら脳腫瘍がすたる(すたってもいいんだけど)。痛みで用事をキャンセルしたら、その場、身体的に楽でも後でがっくりと精神的に落ち込みそうだし、動けるなら倒れるまで動くほうがいい(倒れたくはないけど)。
そう、同じ年代の人より動けない体だけど、その「動けなくなる予感」こそが私の行動力というか向上心の源でもあると思うので、あんまり悪く取らずに頑張れと今日思いました。悪いことばっかりじゃない。

会ってきた人は建築関係の人で、ちょうど「くうねるところすむところ」(平安寿子)を読んだばっかりだったので興味深かったです。あと基本的に人の仕事の話を聞くのは興味深くて面白い。その人が仕事に情熱を持っているならなおさら。仕事だけになるのはつまらないし、良くないと思うし、そうなりたいとは思わないんだけど、でも仕事に誇りや情熱を持つというのは生活にはりが出たりもする気がする。いや、ていうか、「仕事」というのが分かりやすいだけで、自分はこう、という何かを持って行動しているのがいいということかも。

とりあえず体調は相変わらずだったけど楽しく話をして無事に帰ってきました。あとはクーラーの効いた部屋でうだうだ。ニンテンドードックスいじりまくり(笑)。

2006/07/15 夏休みのある小学校時代に帰りたいな

毎日暑くて寝苦しいですねえ。エアコンつけるけど、すぐに寒くなってしまうかわいそうな虚弱体質。暑くなってエアコンつけ、寒くなってエアコン消し、暑くなってのエンドレス。逆にこの寒暖差で体を悪くしているような気がしないでも。
はい、お腹の調子は相変わらずです。お腹は空くけど、食べてごろごろになるのを思うと胃がキリキリ痛んでくる…。
今日も出勤だったので非常に辛かったです…。じっくり休んで体力戻れば何とかもう少し良くなりそうなのに、こういうときに限って出勤です。ていうかこの出勤はがんセンター行くために休みを取った分の出勤で、病院に行くためにこんなに辛い思いしてるあたりに矛盾を感じないでもない…。ううむ。

でも今日は静かな土曜日でした。たまに忙しい土曜日もあるんですが、今日は面談もなく、緊急呼び出しもなく、一人で部屋にこもって資料整理してました(またか)。普段は忙しくてヒラ積みにしている老人ホームや病院のパンフレットをファイリング。棚を総ざらいしたので汗までかくほどでした。はりきりすぎ(笑)。
でも昼は食べられない、食べたくないので飲むヨーグルト。

2006/07/14 きよらかな、もっともきよらかな。

お腹が痛い…。ていうか今週はずっと下り気味で昼ごはんをすっごい少なくしたりとかしてたんですが(でも昨日ビール飲んでしまったけど…)、だめだ、やっぱり今週は出かけることが多いから体力レベルが著しく下がってるんだと思う…。いやこの年代の人なら普通にこなすことなのかもしれないけど、私にとってはこれも相当やってる!って感じなんですよう…。もともと1勤1休が基本だからさあ…。そんな体力のない虚弱体質な自分にしょんぼりしてみたり(いい加減慣れようよ)。

今日はお腹はすくものの、食べようと思うとキリキリ痛むような、ごろごろ下りそうな気がして、結局トマトジュースをちびちびち飲んで終わりでした…。つらい…。

夜はMSW新人研修。次回からはクラス編成(?)が変わるのでドキドキ。友達が出来るといいな…(結構切実)。
今までの研修で友達になった人と、さらに別のMSW友達とで飲み会をしようという話になっていてそれがすごく楽しみ。広がれ!ワーカーの友達の輪!(結構切実)。

2006/07/13 みたままつり

今日は靖国神社のみたままつりに行ってきました。まず最初は九段会館のビアガーデンで飲み会。雨が降って屋根が広げられてたりしてましたが、そのうち雨も止んで虹が見えたりしてビアガーデンって面白いなあ。武道館が見え、屋上に神社があり、ビアガーデンにはバニーちゃんもおり…不思議空間だ(笑)。
バニーちゃんは格好は刺激的ですが、ほんわかした感じの美人さんで下世話な目で見るのが躊躇われるような感じ…でも写真撮らせて下さいとは云うおっさんのような私(やんわりと断られてしまいましたが)。すいません…。
むしむしと息苦しいほど暑かったですが、それだからこそビールが美味しかったです。夏はビール!ビアガーデンだなあ!

その後、みたままつり。夜9時近いのに、割と高齢の方が多くいて、浴衣のギャルがわいわいしてる中でも何処か遠いところを見ているような静かな瞳をしていました。
靖国神社の大鳥居の迫力は相変わらずでした。本殿から強力なサーチライトが放たれてるのもまた威容に拍車をかけている…。でも大鳥居を抜けると、参道の両脇、ずっと先まで高々とたくさんの提灯が灯され、まるで昼間のような眩しさ。そしてたくさんの露天、ベンチが出されてそこで飲み食いをする人たち、設けられた舞台で盆踊りを踊る人たち、鉦の音、浴衣の若者、仕事帰りのサラリーマン、お年寄りの人たち。静かな瞳、笑う顔。声。提灯に浮かび上がる名前。光り。それは切ない光り、鎮魂の光り。祈り。
たくさんの人たちがいて、たくさんの音がしてる、賑やかな、何処か懐かしい夏のお祭りの光景なのに、ひどい熱気のせいか、靖国神社ゆえなのか、何処かぼんやりと、何か心にひっかかるようなものがある。何だろう、分からないけど、たぶんここはものすごく祈りの、鎮魂の場所なんだと思う。光りが胸に滲むような気がする。切ない。この光りに照らされた人ごみに、誰かの面影を探してる人がいる気がする。せつない。涙が出そうになる。分からないけど、知らないけど、でも想いはある。残ってる。もしかして本当に戻ってきているのかもしれない、この場所に、ただひとつ心の拠り所として残した約束の通りに。
政治的な意味とかではなく、たぶん多くの人がここに親しい、懐かしいそして愛しい人の魂が戻ってくる拠り所だと思ってる気がする。それは決して責められることではないと思う。名前とか形式とかではなく、そういう思いを守らなくてはいけないと思う。宗教とか政治ではなく、人として。

何だかひどく切なくなってしまいました。いわゆる靖国問題を考える上で私みたいな感情論はよろしくないのかもしれないですが、純粋な感覚として上のように思った次第です。切ない。本当に切ない。

2006/07/12 少しでも側に来れるかい?必ず見つけてやる

何ていうかここしばらくの私はずいぶんと「こうすべき」「こうあるべき」という息苦しい考えに囚われてたんだなあ、と最近ゆっくりと実感できているので、ゆっくりとその分心がほぐれてきているんだろう、と思う。いいことだ。自分を正当化するためではなく、自分を追い立てるためではなく、この世界の事象を眺めて、自分の歩みを歩んで行きたい。
いい意味で楽に生きたいな。せっかく今生きてるんだからもっとこう自分を楽しませてあげたいな、楽しんで生きたいな、と思う。

相変わらずぐるぐると苦しい部分はありますが、それもきっと自分が自分を守ろうとして必死なんだろうなあ。
早く、早くもっといいものになりたい、とわけもなく焦る気持ちもありますが、本当に欲するものをよく考え、見極め、その上で自分らしい行動を取れたらいいと思う。

2006/07/11 その扉を開くのはあなた

腕の湿疹、リンデロンを塗ったらかゆみが治まってきたけど、掻き過ぎて痣になって痛い(笑)。私の選択肢は痛いか痒いかですか(笑)。
半袖の季節なのに痣なんかこさえて何てこったい。まあ湿疹でぶつぶつしてるよりはマシですが…。

ただでさえ体調とともにお腹も下降気味なのに、職場の空調が今年も異常に冷え冷えときつく(冷房のスイッチ入れてないのに勝手に冷風が吹きだしてくる)体が冷えることこの上なしで、お腹がきついです…。
あと頭痛はデフォルト設定なので大体いつも痛いです。鎮痛剤、下痢止めと毎食ごとに飲んでいます。湿疹はもしかしたら薬疹なのかもしれませんが薬を飲むことを止められない、止められるわけないよ…!

そろそろまたサーモスの出番かも。あったかくなってきてしまっちゃったけど、夏に使うとしたらつめたーい飲み物を持っていくんだと思ってたけど、職場用に熱い生姜紅茶を持っていこうと思います。
本当体の芯から冷えますもん…。ぽんぽんも痛くなるよっていう。

3日付けの日記で触れた芹沢俊介の(評論家)の講座『「病」と向き合う−ヘルスケアを考える−』を受けてきました。やはり病気の向き合い方、というのに興味があったので。
以下要約というか自分ノート。

高度な資本主義社会(消費社会)によって、健康が目的となってきている(例:極端な健康ブーム、病院が病人の行くところから健康な人が行くところへシフトしている)。
目的としての健康とは何か。それは「長生きをすること」、「障害がないこと」である。が、長生きする、つまり高齢化していくと老化に伴う障害が生じるものであり、両者は矛盾し、相容れない。目的としての健康はこの矛盾を克服することがテーマとなる。

健康と病気についての矛盾し循環する定義から、病気が「長生きを妨害したり、障害をもたらす悪」という定義が生じてくる。
病気=悪。悪のメタファーとしての病気。悪とは共立することは出来ない、戦わなくてはならない。そしてその対比として医療が善、正義のメタファー化する。
医療ドラマが面白いと受け止められるのは、医という正義と病気という悪との戦いをドラマチックに描いているからである。最もドラマチックに描かれる手術シーンは、医療が悪を取り除くという医療の正義を最大限に主張するシーンである。正義と悪の戦い、正義による悪の排除という構図は戦争映画と同じものである。

医療の正義のメタファー化が進むことで、悪の侵入を未然に防ぐ、悪の排除を行いたい、行わなくては、という考えが生じる。その循環が「健康な人が病院へ行くという事態を招いている。

医療と病気は戦争のメタファーである。メタファーに取り込まれると、人の恐怖、脅威は増大する。アメリカのイラクへの攻撃がその例である。「悪は悪になる前に取り除かなければならない」。

がんが死のメタファーとなり、人の恐怖、脅威が増大させる。そのメタファーが現在の病気観を支配していることで、人は直接病気と向き合うことが出来なくなっている。

健康を手段または生きるプロセスと捉える考えは、健康と目的化することを防ぐには有効だが、手段が目的となり目的が手段となることがある以上、絶対ではない。

健康になるために医療の介入を許している。「健康になるためには医療の介入が必要不可欠である」。その考えは病気を直視することから遠ざけている。

病気になったときに、病気の手前に何かがあったのではないかと考え、病気の手前を探る健診という考えが発生してきている。その背景には、医療と産業が結びついて「病気=悪のメタファー」(悪は未然に防がなくてはならない、排除されなくてはならない)を利用したということがある。
産業化が医療を進めていくということもあるが、一方で、産業化が病気の一歩前、一歩前を探る(健診)流れを作り出している。

しかし医療の介入が不可欠であるという考えはきりがない。いいことはすべて取り込む、悪いものはすべて排除するという過剰な対応になっていくことの恐ろしさ。それは、本当の意味での健康、病気に向き合えなくさせる。
産業化に乗せられているのか、自分が必要としているのかが分からなくなっている。
自己ケア=自分を受け止めていくという視点がないと健康は確立できないのではないか。

例えば健診でポリープが見つかったので摘出する。それはポリープが「悪性化するといけないから除去する」、つまり「悪にならないうちに悪になることを防ぐ」ということである。それは犯罪学で言うところの「ぐ犯(犯罪をする恐れがある)」と同じである。
病気が悪のメタファー、そして犯罪のメタファーとなっていく怖さがそこにある。

高齢化して耳が遠くなるなどの修復不可能な状態であっても生活している人がいる。がんであっても「健康な感じに見える」人がいる。病気ではないが、健康ではないともいえない。健康とは相対的で揺れるものである。そのときそのときの健康というものがあるのではないか。

現実を受け止める力が病気と向き合うことの根底に必要。

修復不可能な状態(がん、難病、高齢化による障害)でも健康に生きることが出来る。
この状態で循環的な「病気/健康」の定義に捕われていると、病気になった自分が支えられなくなる。

現実を受け止める力が高ければ高いほど、健康と言える。

修復不可能な状態を受け止めて=自分の現実、自分自身を自分で受け止めて、生きていく。それが健康と云える。

病気を直視し、受け止め、新たな生き方を作ろうとする姿勢=病気であっても健康という循環的な定義から抜け出した新しい生き方になる。

医療が主役になってはいけない。主役は常に当事者である。主体は自己。テーマは自己ケア。

(西洋)医療のまなざしは、臓器に集中している。臓器=人間となり、ひいては臓器が病んでいる=人間が病んでいる。ということになる。
しかし臓器は人間の一部でしかない。病気とは、臓器が病んでいることであって、人間が病んでいることではない。

健康は数値、基準値で測られることが多い(血圧、GPT値など)。数値が基準となることで「予測する不安」が作り出されている。

現代社会は自分の健康に強い関心と不安を抱かせられる社会である。
事実はどうなんだ、ということ、病気と向かい合うことが出来なくなる社会でもある。

病気という概念のもっているあいまいさを削除して病気を位置づけ直す。そして病気がメタファー化し、そのメタファーが自己回転することを食い止める。

テキストは、スーザン・ソンターグ「隠喩としての病」。

私の感想。
病気=悪のメタファー化、そして医療=正義のメタファー化というのはなるほどと思うところもあり面白かった。でもちょっと論者に結論(イメージ)を誘導されているような気がして、何がどうとはっきりとは云えないんだけど、ひっかかるところがありました。何だろう…。特に病気が犯罪のメタファーというあたりは飛躍しすぎた感じ…。うまく云えないんだけど。
「メタファー化する」という考えがまず健康人の感覚に思えるからかもしれない。病人にとっても死や不安のメタファーになるうるのかもしれないけど、そのメタファーが脅威になるのは健康人ならではの感覚という気がする。私は病人だからもっとこう生々しい、現実的な手触りのある「病気」を想定してたのかもしれない。
まあ全3回の講座なので結論を出すのはやめておこう。自分が持っている(身につけている)病気への姿勢、考え方を学びたくて講座を受けているわけだし。
しかしこういう思想・哲学系の勉強って好きだな。面白い。あいまいな、イメージ的なものを言葉に置き換える。その詩的で、論理的な作業。大学時代もこういう講義好きだった。
あと病気とメタファーと云えば、2002年に「芸術と医学 メタファーとしての医学」という現代芸術展示見に行ったことがあったなあ。唐突に思い出した。ソンターグも読んでみよう。

2006/07/10 梅雨の元気なごあいさつ

土日ともに出かけて酒を飲んだりしたので、今日はお腹の調子が悪いです。軽く下り気味でちょっと食べたり飲んだりするとすごい不穏な感じでぐるぐるぐる云う…。
あと毎度の頭痛、そして季節柄か右腕に湿疹が出て痒かったりもします。この季節は体調崩れやすいというのもあるんでしょうが、基本的にフルタイムで働く以外の活動は中2日のペースでないとダメな虚弱体質です。最近は中1日ペースでも何とかいけそうなんだけど、なかなかねえ…。
ジムで鍛えてる割に体力というか活動時間が増えなくて、自分でもたまにちょっともどかしい。つまらん。もっと色々やりたいこともあるのになあ。以前よりはましになってきているけれど。

がんセンターで処方された薬は、結局金曜日に行った薬局で受けとってきました。気まずい気もしたけど、行かないのもそれはそれで気まずいし、薬局の人に悪い気がするので…。
行ったら結構待たされましたが、4週間分きちんともらえたのでよかった。取り寄せてもらってたなら行ってよかった…不義理しないで済んだ…。
今回は通導散28日分とブルフェン(イブプロフェン)28日分です。ブルフェンは28日分と云っても頓服じゃなく1日3回分の処方。そんなに飲まない、というか飲まないようにしたいんですが、鎮痛剤がたんまりあると思うと、その鎮痛剤が効くか効かないかは別として非常に満足というか安心というかしますですね。この精神状態はジャンキーか(笑)。

2006/07/09 太陽が、海に溶ける

久し振りに渋谷に行きました。日曜の夜なのでこれでも人出は少ないほうなんでしょうが、さすが渋谷。無意味に戸惑ってしまいますですよ(田舎者)。

そんな渋谷でスキューバダイビングツアーの打ち合わせ会。というかテキパキと有能な友達の話を感心しながら聞いていただけですが(えー)。
とりあえず9月予定のダイビングツアーは無事まとまりました。やったー!沖縄ー!今のところ伊豆にしか行ったことないですが、沖縄で潜って初めてダイビングの素晴らしさが分かるとか色々沖縄ダイビングの素晴らしさを聞いているので、沖縄ダイビングが非常に楽しみです。ドキドキ。
あと、ダイビングツアーだと一人ツアーも全然平気むしろ楽しい、沖縄でも海外でもダイビングツアーなら一人で行ける!という友達の話を聞いてものすごく勇気づけられました。一人でダイビングって手馴れた人にしか出来ない高度な遊びかと思ってたので…(初心者)。そうかー、ダイビングツアーかー。面白そうだなあ。旅好きの血が騒ぐなあ。
友達は8月にパラオにダイビングに行くそうです。すっげー。いいなあ、私も夏は何処か冒険してみたいなあ!

2006/07/08 祝福の日

今日は友達の結婚式。一張羅のドレスを着て、髪の毛も美容院でセットしてきました。髪の毛がだいぶ長くなっていたので(胸元に届くくらい)くるくるに巻き上げてもらいました。髪の毛を束にしてピンで留めたり、逆毛にしたり、コテをあてたり、ゴムで縛ったり、最初は全然どうなるかのイメージがわかなかったのに、気づけばパーティスタイルになっているのが面白い。すごーい。セレブみたい(自分で云うな)。

結婚式は人前式でした。人前式って初めてで、どんなものか想像もつかなかったのですが、楽しそうで華やかで大盛り上がり。花婿花嫁が自分達がどういう家族になりたいか、家族を作るにあたって何を思い、何を大切にしているかをすごく真摯に、そして楽しくお披露目しようとしているからだと思いましたですよ。プロデュース力のある夫婦だなあ、これからの幸せもこうやって二人でプロデュースしていくんだろうなあ、と眩しい気持ち。
あと花婿と花嫁が美形なので、そこに幸せラブオーラが加わって眩しいことこの上なしでした。
はー、こういう日の幸せな姿っていうのはいいですなあ。こちらも幸せになりますですね。

料理もお酒も美味しくて食べ過ぎました。明日からまたダイエットします(毎日がリスタート)。

2006/07/07 痛みの存在

「痛みが伝える情報は、損傷の場所がどこに存在し、また、それに何をしたらよいかも分かるので有益である」。
「その痛みはその上体が回復するまでは、さらに傷つくことから保護してくれる」。

昔読んだ本のメモでこんなのを書き残してました。出典は「痛みの心理学」(E・R・ヒルガード、J・R・ヒルガード)。これを読んだときは大学1年くらいで、頭重感とか微熱とかの体調不良に悩まされつつも病名が「ない」状態で、体調不良は精神的な問題(弱さ)と云われまくって、自分なりに何か解決方法、打開策を見出そうと精神医学の本をあれこれ読んでました。でもこんなメモを残してたとは、我ながら面白い。皮肉も感じる。
痛みの存在理由、意味が、今の私には分からない。

「がん性疼痛」のケースを持っているので、特に痛み、除痛ということについて考える。私は看護師でも医者でもないから直接痛みを治すことは出来ないけど、例えばペインクリニックとか、いい病院とか、せめて何か痛みに対抗するために有効な手段、情報を提示したい。でも、私自身、痛みについては長年取り組んできたけど、解決方法も有効な手段も見つけられてない。ペインクリニックはあるけど、それを勧めるときに絶対の自信を持っては勧められない。人それぞれ効果は違うとは思うけれど、なぜ私が勧めるのか理由を問われて、自分自身がやっている、でも私には効果が分からない、とは答えるのが怖い。それはやりたくない。もちろん人それぞれ、痛みの種類も違うから、私に合わないものがその人にも合わないとは限らないけど。
その人にとって何がベストなのかは分からない。分かりたくてもそれは私の想像でしかない。あるいは共感できる範囲での話でしかない。答えはない。必要なのは的確な、そして有効な情報だ。でも私にも分からない。むしろ私が知りたい。
痛みって何なの?何で痛いの?何でこんなに痛いの?どうして痛いの?生きてるのに、どうして痛いの?生きてるから、痛いの?この痛みがなくなったら生きてないってことなの?どうして?何なの?
分からない。これを考えてると本当辛くなる。ああ。

でも、それでも、何かがあるはず、と思いたい。意味は分からなくても生きてるんだから何かチャンスはあると思いたい。それを探すのが、探せるのが、MSWの仕事だと思いたい。
せめて、何か、心の痛みだけでも、軽くしたい。痛みに心が負けないよう、心のやわらかい、やさしいところ、本当は強くて澄んでいるところを痛みにゆがめられない何かを見つけたい。
私に出来る何か。痛みの意味があるならばそこに意味を見出したい。怯まずに、諦めずに、負けずに、戦えるということに。

心臓外科医の須磨先生の言葉。
「僕は、目の前で死にかかっていて治療法がないという人をいっぱい診てきた。だけどその人にもう治療法がないとはやっぱり言えない。つらいけど、もう一日頑張って生きてごらん、もう一週間頑張ってみようよって。なんでそう言えるかっていうとね、その間にきっとね、治す方法が見つかるよと、僕も見つけられるように僕なりに頑張ってるよという、自分の中にそういうものがあるから言えるんですよね」。
かつて泣きながらかみ締めたこの言葉を今もう一度かみ締める。忘れるな、諦めるな。頑張るんだ。

どうしても言葉にして自分の気持ちを整理して、かみ締めてみずにはいられなかったので、まとまらないながらに書いてみました。希望は忘れまい、どんなときも、何があっても。そういう気持ちを確認したかったのです。

2006/07/07 きんぎんすなご

今日は午前中はがんセンター受診。頭痛が痛かったので(日本語おかしいけど、感覚的には何か違和感ない)とりあえずそれをH先生に訴えてみたところ、
「今は梅雨だから仕方ないよね。具合悪くなる人多いよ」
これはアベ先生の云うことと一緒、でも続けて
「梅雨だと気分が塞ぐし…」
やべ、また「頭痛は君の暗い性格が原因」かと思って速攻で「気分は塞いでないですよ」とかへらへらしつつも主張する私。今までだったらここで修羅場ですが、H先生も「湿気がね…」とかぶつぶつ云うだけで修羅場りませんでした(動詞化)。へらへらは診察の潤滑油(笑)

診察。前回処方された漢方について「手足があったかくなった?」「いえ」、「頭が痛くても首が痛くなくなったとかない?」「ないですねえ」、「血のめぐりが良くなるはずなんですけど」「いやよく分からないです…」…へらへらしながらもすっごいネガティブ!(笑)
前だったら「そんなはずはない」とか「君は大体その年齢の割に体力が…」とか「勉強のしすぎでストレスが…」とかネガティブ攻撃が来たんですが、今のH先生は「そうなんだ…」「本当は○○になるはず(聞き取れなかった)なんだけどなあ…」とぶつぶつ云うだけ。むしろちょっとしょんぼり気味…。何だか先生に申し訳なくなってくる…(何様)。

まあ前回はお互い必死で結果を出そうとしてたというのもあるんですけどね。いや今だって結果が出るに越したことはないですが、H先生は必死なのかもしれないですが、私はまあ結果が出れば猛獣じゃない儲けもの(何て変換ミスだ。笑)とか思っているのでねえ。
治らないと諦めているわけではないけど、治る!とも思っていないというか、「治る」という概念で動く話ではないというか。もっと緩やかな対処療法というか体質改善的なこと、ちょっとでもよければいいな、という心構えで付き合っていくしかないと悟っている(つもり)です。

ていうか頭痛全開だったので漢方より鎮痛剤が欲しくて先生に何かいい鎮痛剤ないですか、と聞いてみました。SG顆粒は飲むと気持ち悪くなるんです、と云ったら呆れられたように短く笑われる私。すいませんね特異体質で…。でも前だったらここで確実に「そんなはずはない」とか云われてたので今はいい感じ。
その後SG顆粒はセデスと同じ成分で作ってるけど効き方は全然違うんだよね、とか、アメリカ人はアスピリンを食うみたいに摂取するけど日本人でやったら胃を悪くする、とか(マジすか)、ぶつぶつ色々講釈してましたが、クセになりたくないならイブプロフェンかアセトアミノフェンだよ、とのことでした。えー…(不満げ)。
結局ブルフェン錠もらいました。せっかくなのでイブプロフェンとアセトアミノフェン両方下さいと云ったらだめと云われた…(不満げ)。2種類あれば交互に飲んだり、カクテルしたり、ブレンドしたり…ってそれは冗談ですが。飲み比べはしてみたかったですが(OTC買えば済む話ですが)。

今回の漢方は「通導散」。これ使ったことないです、と云ったらH先生も「僕も使ったことない」。せ、先生…!?さらりとそんなこと云わないで下さいよ!
でもH先生ってプライド高い研究者というイメージの人だったのでそんなこと素直に云っちゃうなんて意外。そしてそんな先生にちょっときゅん。先生変わりましたねえ…(何様)。
「名前のつけかたからして血のめぐりを良くするんだ」とか云われたけど、その理由はいまいちよく分からないけど、漢方には漢方のルールが何かあるんだな、ということは分かりました。
便秘を解消する薬でもあるとのことで、腹具合を確認されました。私は便秘というより下りやすいタイプなのですが、別にいいようです。い、いいんですか…。先生、何を与えてもうんともすんとも反応しない特異虚弱体質に愛想をつかしてるとかそういうのじゃないですよね(笑)!諦めずに前向きに頑張りましょうよ!(何様)

通導散。
>血液循環をよくするほか、便通をつけたり、不安やイライラをしずめ気分を落ち着けます。また、ホルモンのバランスを整える効果も期待できます。体力のあるガッチリタイプもしくは肥満体質の人で、お腹の張りが強く便秘がちの人に向く処方です。
>具体的には、女性の生理不順、重い生理、更年期障害、腰痛、便秘、打ち身、あるいは高血圧にともなう頭重感や肩こり・めまいなどに適応します。また、そのような症状をともなう子宮の病気にも応用されます。
>体力の充実している「熱・実証」向けの方剤です。したがって、冷えの強い「寒証」、体の虚弱な「虚証」の人は控えるようにします。また、胃腸が弱く、食欲不振や吐き気、嘔吐や下痢などを起こしやすい人は慎重に用いるようにします。
冷えが強くて体が虚弱で下痢も起こしやすいんですけど…。まあ逆にそこまで効けばいいですよね…。飲んでもうんともすんともないんですもん(さりげに韻を踏みました)。
どうでもいいけど、通導散って何か昔の貨幣の名前みたいとか思ってみたり(本当どうでもいい)

その後薬局にてトラブル(っていうか)。
職場に戻らなくてはいけない、時間のない状態で行った私もいけないんでしょうが、薬局で10分くらい待たされた後に、漢方はこの薬局に在庫がない、近隣の薬局にも聞いたけどないようだ、と云われ、まあその時点では特に何を思うでもなく、ないなら仕方ない、取り寄せてもらって来週受け取ろうと思ったんですよ。急ぐ薬ではないので取り寄せにして来週受け取りにいきます、と答えました。
が、その後も5分くらい待たされる…。なぜ…。時間もなくなるし、いらっとしながら薬局の人に聞いたら「もう少々お待ち下さい」でまた待たされ、しばらくしたら、「今一週間分なら近くの薬局にあるみたいなので取りにいくみたいです」。
え、別に急ぐ薬じゃないからいいし、小分けで貰うのも(また受け取りにいくのも)面倒だからいいのに…。そこでまた「急ぐ薬じゃないからいいです。貰うならまとめてもらいたいです」と伝えたら、「少々お待ち下さい」。…いやだからさあ…!ここで相当イライラ。もういいから、来週くるから、と云ってるのに、処方箋を持っている薬剤師さんが戻ってこない。時間もないから、と云っても「お待ち下さい」。で、ようやく来た薬剤師さん(別にまだ近隣の薬局に行っていたわけではない)が「ここの薬局には在庫がないんですが、近隣の薬局に問い合わせたら一週間分なら在庫があるようなので取り寄せるよう確認しますが…」。
がー!私の話を聞いてよ!親切なのかもしれないけど、悪いけど親切じゃないよ!!結局「時間がないからまた来る」というのを伝えて処方箋を返してもらうまでにまたたらたら無駄な時間を使ってしまい、本当イライラしました。親切だと思うんですが、ですが…!
良かれと思ってやっても相手のニーズに合ってるかどうかとはまた違う話という、自分の仕事にも当てはまることなので今回のことはいい勉強と思いますです。
薬は来週取りに行きます…何か面倒だから別の薬局行ってもいいけど、それもまた何か面倒な気もして何だかなあ…。次回は漢方処方はがんセンターの門前で貰うようにしようと思いました。

夜は研修。ビシバシと厳しい講師でしたが、実践的な話はタメになりますです。MSWとは患者と患者が必要としているものをいかにつなげるかが肝心。患者さんの人生に何処まで踏み込むべきなのかはケースバイケースなんでしょうが(そこが難しいところですが)。
一緒に受講してたMSWさんの「医者って感覚が普通の人と違うよねえ」が今日の最大のヒット。やっぱそう思うよねえ!(笑、いごとじゃないけど)。

2006/07/06 人生は旅、旅は人生である

ひでさん(中田英寿)の引退宣言、ファンとしてショックなのとは別に、同年代の人間として色々考えさせられます。
一番好きなことを仕事にすることの楽しさ、苦しさ。責任。誇り。心のバランス。才能に恵まれて、それが心の底から好きなことで、それで生きていけるということのは幸せなことではあるけど、辛いことでもあるんだろうな。凡人からしたら想像もつかない世界だけど。
一番好きなことを仕事にしてそれを満足だ、もう十分だと思えるほど全力を出し尽くして「終わり」にすることは何となく幸せなことに思える。ていうかもしかしたら好きなことを仕事にしたことへの責任の形ってもうこれ以上できない、やらなくていい、と思えるまでやりつくすことなのかも。この世の果てにたどり着いた、まさに「旅の終わり」みたいな感じで、絶望的ではなく。いいなあ、そこに至る道のりはとてつもなく大変なんだろうけど、だからこそ、そういうことが出来る人は素晴らしい。すごい生き様だ。引き際の美しさではなく、リスタートの姿勢、向上心の強さに惹かれる。憧れる。

ひでさんは本当に旅人になって世界中を旅して自分探しをするって云う。私は、私も、何処かへ行きたい、自分を探し、追い求めていたい、そう思う。

「人生は」何かと聞かれたら、「人生はリハビリテーション」というのが今の私の答え。這いずるようでも、手探りでも、自分の人生をひとつひとつ確かめていく。自分に出来ることを増やして、自分を取り戻していく。そういうものと思う。

2006/07/05 痛みに耐えて頑張りません

今日は頭痛はなし。晴れているのと何か関係が…?

午前中仕事をしていたら(特に何かをしたわけでもないのに)急に猛烈に胸が痛くなってきました。いや比喩表現でなく(笑)。胸というか胸骨、みぞおちより上の、骨の裏側というか奥というかがごりごりと痛む。じっとしていてもごろっとした痛みがあって圧迫感を感じる。息苦しいわけではないけど、違和感がある。
上体をひねると胸骨がごりっと痛み、その後もじんわーり痛みが広がる。歩いていても痛い、けど息苦しいとかはない。ストレッチしても変わらない。痛いので動かしたくない。自棄にやって自分で胸をどんごどんご拳で叩いてみたけど(テレビかよ)変化なし…。
何なんだ、痛いよう…。心臓系の痛みではなく、何か筋違えとか骨がずれたとかそういう感じっぽい、いやなったことないから分からないですが感覚的に…。

肋間神経痛と診断されたことがあるのですが(小学生のときに。笑…)肋間神経痛は読んで字のごとく肋骨の間が痛いって感じなんですよねえ…。心臓に近いところが痛くなるので、一時期は狭心症なのかと怯えてたりしたなあ…。

調べてみて一番近い感じなのはこれ。
>肋軟骨痛
>肋軟骨という軟骨(肋骨と胸骨のあいだにある)の接合部分が急に痛くなったり、また段々と痛みが増してくることがあります。深呼吸をしたり、上体を曲げたりすると痛みが強くなります。この痛みは自分でその部分を押さえると痛みが増してきます。
>局所的にその部分が腫れてくる肋軟骨痛を「ティエッツ症候群」と呼んでいますが、原因ははっきりせず、おそらく年齢的な変化に伴い、肋軟骨に石灰沈着が起こったり、肋骨との接合部が敏感になるためだと考えられています。
>経過はまちまちで2〜3週間から2〜3ヶ月痛みが続く場合があります。予後はよいもので治療しなくても治ってしまいますが、あまり痛みが続く場合にはアスピリンなどの鎮痛剤を服用すればよいでしょう。

中年女性に多いらしいです。軟骨が磨り減って痛む年頃だから…?私はまだ一応若いつもりまんまんなので微妙にショックですが、まあとりあえず治療しなくても治っちゃうようなものならいいか…。肋間神経痛にしろ、肋軟骨痛にしろ、鎮痛剤で何とかなるらしいとのことなので、早速イブクイック飲んでおきました。頭痛のときは結構服薬頻度とか間隔とかを気にするのですが、頭痛とは別の話ということであっさりと服薬。体は同じなのに、病気が違うと効くような気がしてしまう(笑)。

1時間くらいしたら痛みや違和感がなくなってきました。そして午後からは何事もなかったように過ごせました。おお鎮痛剤って本当に痛みが治まるんだ!(と感動)
ところで肋軟骨痛(だとしたら)、治療は必要ないだろうけど、コラーゲンとか関節サプリみたいのを飲んだほうがいいのかしらん…。鍛えるとか?ううーん…。

鍛えるで思い出したけど、そう云えば最近のジム通いはもっぱらプール。マシンを使ってトレーニングしてないなあ。でも私はマシントレよりも水泳が合ってるていうか好き。

2006/07/03 私の生きる国

しっかり眠ったのに、今日も頭痛が痛い(日本語変ですよ!)。
アベ先生も云ってたけど、この季節(梅雨)は神経痛なり後遺症なり古傷なり痛みだすのは仕方ないのかもしれないけど、とりあえず原因は何でもいいから痛くないのがいいなあ、と思うけど、どうにもなるまい。

そんなわけで(?)一時期はやめてたけど、最近また朝缶コーヒーを飲むようになりました。職場近くのコンビニで缶コーヒー買って、職場で制服に着替えた後パソコンを立ち上げながら一服。ふー、しみるぜ(?)
夏なので缶コーヒーも色々出ていますですね。今のところBOSSのアメリカーノが好き。ジョージアは甘すぎる気がする。個人的に。

最近考えさせられる言葉。芹沢俊介のこの言葉。

>私たちはふだん、健康と病気を画然とわけて、二つの王国は別々であり、それぞれ違った住人が住んでいると考えています。
一方の王国には健康人が住んでおり、他方には病人が住んでいる、それが当たり前とみなしています。
しかしひとたび病気になってみると、私たちはしばしば健康と病気の両方の王国を行ったり来たりしているということを知ります。さらには二つの王国、二つの王国の住人のあいだには、はっきりした区別、境界らしきものはないということにも気づきます。


「病人/健康人」がまったく違うものであるのと同時に共通する部分もあるものである、というのは分かるような腑に落ちない部分もあるような。
健康人から病人になり健康人に戻った人になら実感できるのかもしれないけど、これを今病人である人に云うのは酷だろうなあとも思う。
自分ががんセンターにいた頃は「病人」と「健康人」の感覚の違いをすごく感じていました。「健康人」、そのときの私の感覚だと「外の人」。差別的な意味ではなく、淡々とした感覚として「病院の外の人」。病院にいる患者さんは「内側の人」。
外の人が云うことが「同情している(可哀相がっている)」とかそういうことは特に思わなかったけど、外の人が「若いのに可哀相に」と云うのを、内の人は「若いから回復力あっていいわね。すぐに元気になるわよ」と云うのが、その感覚の違いが面白いなあとすごく思った覚えはあります。たぶん「頑張れ」という言葉も外の人と内の人が云うのとでは違うんだろうなあ、と思う。ある意味仲間意識というか感覚の違い、いる場所が違うことによる視界の違いみたいなものだと思う。もちろん内面的な、精神的なものもあるけど、もっと物理的な、ポジション的な。
今でも私は「病人」だけど、職場(病院)で制服着ていると、患者さんから「元気そうでいいねえ」とか普通に云われますからね。私は同じと思っていてもその人にとっては私は「外の人」で、私が「内の人」感覚で云ってる言葉もその人からしたら「健康な人はいいよな、何が分かるんだよ」とか思ってるのかもしれなくて、そういう距離感って厳然としているようで曖昧でもある。切なくも複雑な気持ちになる。病人って何だろう?病人ではない幸せってどんなだろう?

あと「病人/健康人」と云うと、何だか健康人のほうが優位というか強いようなイメージがあるけど、病人からの逆差別とか拒絶というのは実は結構ダメージ力のある、キツイものだと思っていたりもします。例えば「病気をした私の気持ちが分かるの!?」とか云う系。病人が好きで病気になったのではないのと同様に、健康人だって好きで病気にならないわけではない、というか、ある意味病気になりたくたってなれない、病人の気持ちを理解したいと思っていたとしても理解するすべは健康人にはないわけで、それを振りかざすのは病人の「暴力」と感じる。しかも健康人が抵抗できない(心情的に)類の。
ときどき病気をしている当事者よりもある意味ではそれを見ているしか出来ないというポジションの人のほうが辛いんじゃないかと思うことがあります。親とか家族とか。
でもだからと云って確かに病人のやり場のない気持ちとか不平等感とかってどうしていいのか分からないし、健康人に無邪気なことを云われると傷つくし、訴えずにはいられないということもありますしね。
「辛い」と言葉にして訴えてない(つもり)なのに、態度(様子)から「辛いのはあなただけじゃない」とか云われたりすると、本当怒りやら情けなさやらで涙が出てくるほどの気持ちになる。

…まとまってなくて支離滅裂ですが、そんなことを考えだすと止まらない。

2006/07/02 私の知らないあいだにも世界はまわってる

4時に起きてW杯観戦(テレビ)。4時って空がうすぼんやりと明るくなってきて、雀などがちゅんちゅん鳴いてるし、新聞配達の音がするし、何か典型的というか本当にドラマみたいなんだな、と変な感動を覚えました。
頑張って起きて観た甲斐のある試合でしたが、起きるのはつらかった…そして眠かった…。
試合終わって興奮が醒めた後、3時間ほど睡眠。

再び起きてからは、買い物へ。時々雨がぱらつき、横から吹く風は強く、歩いてるとよろめくほど。台風でも来るのだろうか、という。

今度友達の結婚式があるので、小物やアクセサリーなど。ついでにコムサでバンバカあれこれ買ってしまいました。セールだし。そして私はコムサが好き。

ところで世の中にはエビちゃんOLとかモテ系とか愛され系とかチョイ悪とか色々ありますが、私ってどういう系統なんだろう…(聞かれましても)。チョイ悪になってみたい気はするけど(笑)。ていうか系統に入れるほどオシャレに気を配ってないレベルか…。
買い物してるとつい手にとってしまうものは大体同じような、似たようなデザインだったり色だったりしますけどね。いつもとは違うものを選ぶ、というときのパターンすら決まっているというありさま。大体いつも同じような格好をしているのかも…。

あとヨドバシでハンディクリーナー買ってみました。整理整頓、掃除が苦手な私ですが、部屋(フローリング)にほこりや髪の毛がたまっているのは汚くていやだ!特にこの季節暑苦しくて耐え難い!でもデカい掃除機だと出してくるのがいやだし、ウェットなお掃除ペーパーでふいても取りきれない気がするし。
使ってみたらなかなかよかったです。これからは部屋を清潔に保てる、はず…(笑)。

激しい頭痛。買い物終盤から立って歩くのがいやになるほど。しかしこれは寝不足のため。ある意味名誉の頭痛ですよ(?)
何とか必死で家に帰りつき、自宅で横になって休みました。
原因が睡眠不足と分かっているのでコーヒーを飲んで鎮痛剤は我慢我慢。寝不足頭痛だけど、痛すぎて眠れない。でも今夜早く寝れば寝不足頭痛は治るはず。

気を紛らわすために(という口実で)スーパーカップのミントチョコを食べたら美味しかった。クリーム系ながらすーっと涼しく、でも甘く、でもしつこくない。いい味だ。絶妙だ。ミントチョコアイスって久し振りに食べたけど、やっぱり美味しい。好きだ。

夜は再放送でW杯(ブラジル対フランス)を見てしまう。一度観たのに、ニュースでもさんざん観たのに、それでもぐっと引き込まれるものがありますです。
サッカーそのものもだけど、己に課せられたもののために戦う人の強さ、心の中の恐怖感などについて思う。愛国心とは云われるけど、愛国心というものについて不勉強な私には、何ていうか誇りとか責任感、深い自尊心に支えられた闘志というようなものを感じましたです。

2006/07/01 7月になりました。

改めて自分の引き出しの数とか収納能力を考えてると、意外と少ないんだなあと思ったりもしてみたり。まだまだ色んなことをしないといかんなあ、と思うし、したいなあとも思います。
月日の経つのは早いけど、人生は長い(はず)。

今日はペインクリニック。季節柄、患者さんが多く、1時間半ほど待ちました。まあ一般の病院からしたら1時間半なんて大した待ち時間じゃないですが(それも異常ですけどね)。
ちなみに、ペインクリニックの場合、普通に待合室で待って、名前を呼ばれて診察室に入って診察受けて、注射を受ける処置室のベッドで先生が来るのを待って(ある程度の人数が処置室に揃うまで待たされる)、注射を受けて、その後30分安静時間という流れです。
ベッドで横になって待つのは眠れるし、楽でいいです(笑)。待合室で待たされるのが大半ですが。

神経ブロックの注射を受けるとき、体の力を抜かなくてはいけないんですが、意外となかなかうまく抜けない。抜いてるつもりでも抜けてない。力が入ってると、針がなかなかうまいこと入らないので痛い思いをするのでよくないんですが、でも無意識に緊張するようです。やーん。
肩の力を抜くことを意識して、軽く口を開けているといい感じな気がするけど、今日は口を開けてたら何か唾を飲み込みたくなり、でももうすでに消毒も終わり、注射の針も入ってる(これから麻酔注入)状態だったので、喉を動かすわけにはいかない、我慢、我慢よ私!と思ってたのに、無意識に反射的に喉がごくっと動いてしまいました…!喉に注射針刺さってるのに!私もアベ先生も衝撃、驚愕。特にアベ先生は一瞬で石になったように固まってしまわれた…。その固まりようにプロを感じつつも無駄にビビらせてしまって本当に申し訳なかったです…。いや私も避けられるなら避けたかったんですが、生理的反射的な出来事だったので…。
注射針刺さってるので、麻酔が漏れて昏倒(また)とか、針先が内部で…(ギャー)とかになるのかとさすがに私もビビりましたが、大丈夫でした。よ、よかった…。そして本当にアベ先生、すいみません。
注射が無事終わった後も、緊張が抜けない表情の先生にしきりに「気分悪くなったりしたらいってね!」と云われました。看護師さんに「この人(私)に全身麻酔かけちゃったことあるからね…ハハ」と力なくいました…。アベ先生、初めての麻酔事故ですもんね、トラウマですよね…ハハ…。
でもとりあえず無事に診察終了。

その後友達と会って、諸々話などをして、夕飯は更科一休でおそばを食べました。どうしたって笑いで落とさないと気が済まない性質であることを強く再認識しました(笑)。



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